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この物語は、当サイト運営者・松本直之が農業の世界に飛び込み、失敗を繰り返しながらも一人前の農家へと成長していく過程を記したものである。
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2003年2月
沖縄県の宮古島にある民宿・津嘉山荘で僕は朝食を食べていた。
自分探しの旅、などという都合のいい言葉を武器に会社を辞めたあと、自転車で日本一周しようと走り始めたのが約一年前のこと。
自分が本当にやりたいことを見つけようと各地を回りながら見聞を広め、いろんな場所や人に触れてきたつもりだったが、一年近く経ってもこれといったものは見つからなかった。そりゃあそうだ、自転車に乗っているだけで人生が変わる出会いがあるなら、誰も苦労なんてしない。
(人生を賭けてみたいと思えることって、そんな簡単には見つからないんだなぁ・・・。)
(このまま旅が終わったらまた代わり映えのしない日常がはじまるんだろうなぁ・・・。)
そんなことを考えながら僕は食堂で箸を動かしていた。
僕の名前は「松本直之」24歳。システムエンジニアとして自動車関連会社に勤務していたが、家と会社を往復するだけの毎日に嫌気がさして辞表を提出。自転車で日本一周したら人生が変わるのでは?と淡い期待を抱いて非日常な毎日を過ごしている。無職。
この民宿では宿泊客がみんな揃って食事をする。大きなテーブルを囲むように宿泊客が座り、わいわい話をしながら食べる。隣に座った全然知らない人と会話するのは当たり前の光景で、自己紹介しあったり、観光名所の情報交換をしたり、仕事や趣味の話をしたり、なかには旧知の友人かのように親しくなった人たちもいるようだ。宿の女将がうまく場を和ませてくれるので、みんな話しやすいのかもしれない。
けれども、人付き合いがあまり得意じゃない僕はアットホームな雰囲気にどうも馴染めず、隅っこで静かに座っている。いつものことだ。大人数で居酒屋に行ってもたいして会話せず隅でひたすらサラダを食べている、そういう人間は旅行先でもどうやら変わらないらしい。
(さっさと食べ終わって部屋に戻ろう。)
そう思いながら、南国特有の締まりのない柔らかい刺身をさっと口に運んだところで、向かいに座っていた白髪交じりで強面の男性に声をかけられた。
「兄ちゃん、ここのトイレは使ったか?どうだった?」
(えっ?なにその質問?どう答えたら正解なの?怖い!)
僕はとっさに身構えた。そのおじさんが怖そうな顔をしているからではない。返答を間違えたらどこか知らない世界へ連れていかれそうな気がしたからだ。間違えてはいけない、ぜったいに。慎重に言葉を選ばなければ。
宿泊客であるおじさんがなぜトイレのことを質問してくるのだろうか。前に使った人がウ〇コまみれに汚していたのを見て不快に思ったのかもしれない。もしくは、都会とは違う不便な造りのトイレに愚痴をこぼしてくれる共感者を探しているのかもしれない。うーん、分からない。というか、朝起きてから入った共同トイレのことなんてまったく覚えてないし興味もない。
「・・・きれいでしたよ。」
とりあえず無難な言葉で乗り切ることにする。僕は汚してませんよアピールと、不便な造りそのものには触れない逃げの一手。
「だろ~。ここのトイレはワシがきれいに掃除しとるからなぁ。」
正解。大正解。逃げたつもりがどうやら懐に飛び込んで抱きついていたらしい。なぜ客であるおじさんがトイレ掃除をしているのか、そんな疑問も浮かばないほど僕は興奮し、そして安堵した。助かったぁ。
・・・
僕の返答に気をよくしたのか、トイレ掃除カミングアウトを皮切りに、おじさん怒涛の饒舌トークが始まってしまった。1ヶ月以上もここに泊まっていること、トイレだけじゃなく風呂もキレイにしていること、生ゴミなどを堆肥化して畑に撒いていること、などまくしたてるように聞いてもないことを次々に話してくれた。
話を聞いていて気になったのが「イーエム」というキーワード。話のところどころで何度も登場する単語なのだが、僕はそんな単語をこれまで耳にしたことがなかった。どうやらイーエムを使って掃除をしたり堆肥を作ったりしているようなのだが、聞いていてもイメージがわかずいまいちピンとこない。
「そのイーエムってなんですか?洗剤かなにかですか?」
ちゃんと聞いておかないと内容が理解できそうにないので質問してみた。その瞬間、強面おじさんの表情筋が緩む。満面の笑み。よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの顔。どうやら僕は禁断の扉を開いてしまったようだ。
「今からワシの部屋に来い。」
・・・
通された部屋は3畳ほどでかなり狭い。僕が泊っている部屋もそうなので、この民宿はどこもこのサイズなのだろう。長期滞在していると言っていたわりに荷物は少ないようだが、バックパッカーならこんなものなのかもしれない。おじさんは部屋に入るなり話し始めた。
「トイレの窓のところに茶色の液体が入ったペットボトルがあっただろ?あれがイーエムや。」
「乳酸菌とか酵母とか、発酵に使われるような微生物がいろいろ入っとってな、臭いところにそいつをシュッと吹きかけてやれば悪臭が消えるんだわ」
「環境浄化にすごい効果があってな、ヘドロが溜まった池にイーエムを流し込んだら水がきれいになって匂いが消えたって話もある」
「自分で培養して増やせるからお金もぜんぜんかからん、安上がりで効果が高いのがイーエムのすごいところや」
(話が途切れないなぁ。)
(すごいのは分かったけどあんまり興味ないなぁ。)
(けどヘドロの浄化が本当なら大ニュースだわ。どこの池だろ?)
部屋の中はおじさんから出る熱気でむんむんしている。2月なのになんだか汗ばむ。このおじさんはなぜこんなにイーエムに夢中になれるんだろうか。なぜこんなに嬉しそうにイーエムを語れるんだろうか。人を虜にする魅力がイーエムにあるんだろうか。
聞いているうちに僕は、イーエムの効果そのものよりも、ここまで人を惹きつける宗教っぽさに興味がわいた。ただ商品が魅力的なだけでは宗教じみた熱狂は生まれない。熱狂が生まれるためには、それを扇動する広告があったり、流行をつくる戦略が潜んでいたりするものだ。
「イーエムってどこの会社の商品なんですか?」
有名なメーカーが著名なタレントを使ってCMが大ヒット。イーエムはそんなブームを作った商品なのかもしれない。1年間のキャンプ生活でテレビなんてほとんど見てなかった浦島太郎な僕は、恥を忍んでイーエムの製造販売元について質問してみた。
「製造は静岡あたりでやってたはずやけど・・・それよりもイーエムの生みの親を覚えとけ。琉球大学の比嘉教授や。」
「その方がイーエムを作ったんですか?」
「そうや。もともとは農業で微生物をうまく活用できないかと研究を重ねて生まれたのがイーエムなんだが、それが環境にも医療にも健康にもいいと広がっていった。大学のセンセーがつくったもんだから間違いないし、ワシもその効果は実感しとる。」
「農業で使えるんですか?」
「すごい効果あるぞ。農薬を使わんでも野菜が育つし、収穫量が増えて味もよくなる。農業なんて簡単になる。これを使って有機農業をやったら儲かるぞ。」
(えっ、簡単で儲かる?ほんとに?)
(そんなすごいものなの?楽して儲かるならいいよなぁ。)
その後もイーエムについて色々と話してくれたがあまり理解できなかった。良い微生物がバランスよく混ぜられていて、それが環境や人体へプラスに働くらしいのだが、専門的な用語が出てくるとさっぱり分からなくなる。結局おじさんの独演会は2時間ほど続いたが、理解できたのはイーエムがどうやら僕の未来を変えてくれそうだということだけだった。
・・・
イーエムを使えば農業が簡単になり儲かる。それが本当かどうかは正直わからない。おじさんのリップサービスかもしれないし、じつは嘘かもしれない。でも僕は簡単に釣られてしまった。大きく心を揺さぶられた。自転車旅行が終わったら農業を仕事にしてみるのもいいかもしれない、そんな気持ちが芽生え始めたのはまさにこの瞬間だった。
まずは調べてみようか、そのイーエム農業とやらを。調べてみてからでも遅くないし、実際にやっている農家に話を聞けば実情がわかるはず。せっかく興味がわいたんだから動いてみないと何も始まらない。
農業を仕事にしようなんてこれまで考えたこともなかった。北海道を自転車で走っていた時ですら、目に映るあの広大な農地を耕すスケールの大きな農業にまったく興味がわかなかった。それなのに、簡単!儲かる!と言われた途端に気持ちが揺らぐ。
儲かる農業。楽して稼げる農業。そんなうまい話があるはず無いだろと自制しつつも、もしかしたらとんでもない金鉱脈を掘り当てたかもしれないと高揚する。典型的な詐欺に引っかかるパターン。完全な鴨ネギ状態。
おじさんがもし詐欺目的で近づいてきていたら、間違いなく僕は有り金すべてむしり取られていただろう。おじさんが詐欺目的で近づいてこなくてラッキーだったのかもしれない。
・・・そういえば有機農業ってなんだ?普通の農業とは違うのだろうか。農薬を使うとか使わないとか、そんな話をしていたけど農薬を使う農業が普通ってことなのか?そんなことも分からずに、家庭菜園すらやったこともないのに、僕は農家として働く未来にワクワクしていた。
第1章.出会いが運命を変えるのは本当らしい このページです